沖縄旅行記(2018年 夏)③「浦添大公園管理事務所」と「缶詰・カンパン壕」
ここ1ヶ月なんだかんだと野暮用で忙しく、前回記事で続きを勿体つけたまま書くのが遅くなってしまいました…
<(_ _)>
前田高地からようやく辿り着いた「浦添大公園南エントランス管理事務所」。
このチラシを見て行きました ↓
建物は新しいのか、とても綺麗です。訪問者もいません…
館内はそれほど広くありませんが、貴重な戦時中の発掘された遺物が展示されています。中でも私が一番「おぉ~!」と興奮したのがこの前田高地のジオラマ。
一番大事な引きの全体写真に限ってピンぼけに仕上がる痛恨のミス
(*´Д`)
とても精巧にできていて、全貌が見渡せます(コレは鮮明)。
職員さんがジオラマを指しながら、「この辺りに米軍が基地を構えてここから攻撃したんですよ」と『ハクソーリッジ』を彷彿とさせる説明をして下さいました。
〇で囲ってある「ワカリジー」の右側辺り250mほどのところに小高い丘陵があり、ここを死守しなければならなかったものの攻撃しては隊は全滅、生還する日本兵はほとんどいなかったことから「魔の高地」と呼ばれました。(〇部分↓)
こんな小さな丘を死守する為に壮絶な戦闘があったのですね。
ワカリジーは近くに寄ると今でも爆撃の跡で陥没だらけです↓
入館してからしばらく、なるほどここだと米軍からは丸見えだったな、と想像を巡らせてはジーッとしつこくジオラマを見つめていると、職員さんが『ハクソーリッジ』の主人公・デズモンド ドスが戦後この前田高地に訪れたのですよ、とその時の写真を見せてくださいました!
貴重な写真がコレです!!!
そしてその写真の枠にはリアルで細かな記録が手書きされています。
1995年の訪問のようです。23年前ですが、時代はがっつり現代です。
生き証人で、しかもあんな想像もつかないような戦時中にいた方なんだと思うとうまく表現できませんが、なんだか圧倒されます。
御本人はどんな気持ちでここに立っておられたのでしょう。日米両軍の何百、何千という前線の兵士が撃たれ、爆殺されたのを見た場所に日本人と穏やかに会話し、そこに立つ…。
時代の変化をひたすらに感じるのか、はたまたタイムスリップしてしまうのか。
『ハクソーリッジ』を観た人には感慨深く、たまらない写真ではないでしょうか。
ぜひ現地に訪れて実物を見て頂きたいです。
余談ですが、生き証人と言えばこちらは元陸軍大尉だった伊東孝一さんです(の自叙伝です)
この方も弱冠24歳で大隊長として沖縄戦で大活躍され、最高指揮・牛島満中将からその功績に対し感謝状を受けた方です。
「ありったけの地獄を一つに集めた」沖縄戦で日本軍は玉砕し、その中で生き残られたことは奇跡中の奇跡だと思います。そして私の知る限り今もご健在です。
御歳98歳。
「生き残った罪、だからその罰」と、戦争の責任を一人で背負い続けてこられました。
伊東さんが取り上げられた記事です↓↓
沖縄戦で生き残った男が「封印」した356通の手紙。時空を超え、若者たちが遺族に届ける
亡くなった人は無論のこと、生き残った人もまた戦争の犠牲者なんですよね。
国家の決定に駆り出され、命令に従い、殺し合って、戦争は終わり、その後国家は復興。
戦った生身の人間はすっかり置いてけぼりで、時代はガラリと変わっても何十年も贖罪の日々を送ることになるわけです。
戦時中、部下たちに壕の外に出るなと命令し続け、結局死ぬまで太陽の光を見せてあげられなかった贖罪として、生き残ってしまったご自分は部下に申し訳ないと外に出ないと決めて、もう70年以上も自宅から一歩も出ず過ごしていらっしゃる元部隊長の方もおられるそうです。
90歳を超える体験者の方々がいまだに生き残った十字架を背負いながら毎日を過ごしていらっしゃるのを聞くと戦争の罪深さを感じずにはいられません。
時代の流れ、と言えばそれまででしょうが戦争体験をした方は70年以上経つ今でも鮮明に覚えておられたりして、戦争を知らない私たちにはやはり想像も及ばないほどの出来事だったのだと思います。
さてジオラマを堪能した後、見逃し続けた「缶詰・カンパン壕」へ。
前田高地には日本軍用の食料を保管していた「缶詰壕」や「カンパン壕」と呼ばれた壕が残っています。
またもや「ハブ注意」に脅かされながら、怖さを振り払うようにずんずん前進します。
小さなゲートを開けて入ります。
階段が設置されています。
お天気が良く明るいので何とか進めますが周りが暗いと危険と恐怖しかありません。いろんな意味で。
訪れる際は、どうぞ安全のためにも真っ昼間にいらっしゃってください。
『うらそえナビ』のHPからお借りしました。こちらの方が見やすいですね。
(^^;)>
ジオラマで見ると…(載せたくて仕方がない)
〇印の辺りです。
ジオラマ手前側が日本軍、向こう側が米軍陣地になります。
↓缶詰壕への案内板
こちらが缶詰壕
どの壕も岩盤が下がり危険なため、入ることはできません。
↓カンパン壕
水が流れ込んでしまっています。
あちこちに壕跡があります。
当時はもう少し広かったのでしょうが、こんな薄暗いなかで米軍の攻撃にさらされながら何日も過ごしていたのかと思うと肉体も精神も環境も極限の劣悪レベルだったのでしょう。
米軍は戦中でも軍の交代があり、心身のリフレッシュ期間が設けられていたようです。日本軍は火力・兵力の圧倒的不利に加え、兵士の体力面においても不利、だったのですね。
どこのどんな史跡でもそうですが、背景を知らないと「ふーん」で終わりがちです。そんなわけで私達夫婦はより深く意味のある旅になるよう事前学習をするわけですが、知れば知るほど何でもない岩や壁にすら感動します。
もしこのブログ記事を読んで「缶詰・カンパン壕」を訪れようと思ってくださる方もおられるかもしれないので、ここで背景となるエピソードをひとつ。
以前にご紹介した外間守善 著『私の沖縄戦記』からの抜粋引用です。
「私が前田の缶詰壕に潜んでいたとき、二人の日本兵がやってきた。缶切りがなかったところにやってきた二人は勝手を知っている様子で缶詰を開け食べ始めたので私の分も分けてくれと頼んだ。無視して貪り食うばかりで、重ねて懇願するとうるさいとばかりに銃剣で脅かされ壕奥へと追いやられてしまった。私は何時間もかかって小さな穴を開け缶詰の汁をするるのが精一杯だった。
突然の銃声で目を覚ますと、壕口の二人は米軍の小銃掃射にあって転がっていた(死んでいた)。彼らに壕奥へ追いやられたことで、また私は命拾いをした」
外間さんはあまりの戦闘の過酷さと苦痛に、もう「ひと思いに銃弾を受けて」死んでもいいと思いつつ何度も奇跡的な命運に救われ、生き残られたおひとりです。
ぜひこの著書を読んでからの前田高地訪問を強くお勧め致します
('ω')ノ
今回の沖縄旅の戦跡めぐりは以上になります。
何度行っても当時のまま現存する遺跡を見ると戦争は現実にあったのだと改めて思い知らされ一気にリアルに感じます。
ここ数年、終戦記念日が近づく8月になっても戦争特集番組が激減し、ほとんど見なくなりました。学校教育では「二度と繰り返してはいけない」と叫びつつもリアルさがないと子供たちにはひょっとするとシューティングゲームのようにしか映らないかもしれません。
私の中・高の出身校だけかもしれませんが、日本史の授業は明治維新を終えてからは大して時間を割かれることなくすごいスピードで終えました。
原始時代を軽んじていいとは言いませんが、弥生土器や縄文土器にはすごく時間をかけるのに、終盤の近代はやっつけ感半端なかったです。
現在の日本の礎となる時代をしっかり学ぶことで、いつ、なぜ日本は軍国主義だったのか、なぜ戦争に突っ走ったのか、原因と経緯を知れば予防ができます。風化してしまっては繰り返し回避を未来永劫に担保できない気がします。
保存維持にはお金がかかりますが、作りものではない戦跡ほど貴重なものはありません。少しでも戦争遺跡に焦点が当たってほしいものです。