こだわり夫婦のお出かけブログ

潔癖が止まらない夫婦ふたり。快適な旅を追求します。

沖縄旅行記(2018年 夏)③「浦添大公園管理事務所」と「缶詰・カンパン壕」

ここ1ヶ月なんだかんだと野暮用で忙しく、前回記事で続きを勿体つけたまま書くのが遅くなってしまいました…

<(_ _)>

 

前田高地からようやく辿り着いた「浦添大公園南エントランス管理事務所」。

このチラシを見て行きました ↓

f:id:No10:20180830114827j:plain

 

建物は新しいのか、とても綺麗です。訪問者もいません…

f:id:No10:20180830115503j:plain

f:id:No10:20180830115557j:plain

館内はそれほど広くありませんが、貴重な戦時中の発掘された遺物が展示されています。中でも私が一番「おぉ~!」と興奮したのがこの前田高地のジオラマ

f:id:No10:20180830122707j:plain

一番大事な引きの全体写真に限ってピンぼけに仕上がる痛恨のミス

(*´Д`)

とても精巧にできていて、全貌が見渡せます(コレは鮮明)。

f:id:No10:20180830141714j:plain

職員さんがジオラマを指しながら、「この辺りに米軍が基地を構えてここから攻撃したんですよ」と『ハクソーリッジ』を彷彿とさせる説明をして下さいました。

で囲ってある「ワカリジー」の右側辺り250mほどのところに小高い丘陵があり、ここを死守しなければならなかったものの攻撃しては隊は全滅、生還する日本兵はほとんどいなかったことから「魔の高地」と呼ばれました。(部分↓)

f:id:No10:20180830141625j:plain

こんな小さな丘を死守する為に壮絶な戦闘があったのですね。

ワカリジーは近くに寄ると今でも爆撃の跡で陥没だらけです↓

f:id:No10:20180830133745j:plain

 

入館してからしばらく、なるほどここだと米軍からは丸見えだったな、と想像を巡らせてはジーッとしつこくジオラマを見つめていると、職員さんが『ハクソーリッジ』の主人公・デズモンド ドスが戦後この前田高地に訪れたのですよ、とその時の写真を見せてくださいました!

貴重な写真がコレです!!!

f:id:No10:20180830134950j:plain

 そしてその写真の枠にはリアルで細かな記録が手書きされています。

f:id:No10:20180830135116j:plain

1995年の訪問のようです。23年前ですが、時代はがっつり現代です。

生き証人で、しかもあんな想像もつかないような戦時中にいた方なんだと思うとうまく表現できませんが、なんだか圧倒されます。

御本人はどんな気持ちでここに立っておられたのでしょう。日米両軍の何百、何千という前線の兵士が撃たれ、爆殺されたのを見た場所に日本人と穏やかに会話し、そこに立つ…。

時代の変化をひたすらに感じるのか、はたまたタイムスリップしてしまうのか。

 『ハクソーリッジ』を観た人には感慨深く、たまらない写真ではないでしょうか。

ぜひ現地に訪れて実物を見て頂きたいです。

 

余談ですが、生き証人と言えばこちらは元陸軍大尉だった伊東孝一さんです(の自叙伝です)

f:id:No10:20180830140244j:plain

この方も弱冠24歳で大隊長として沖縄戦で大活躍され、最高指揮・牛島満中将からその功績に対し感謝状を受けた方です。

「ありったけの地獄を一つに集めた」沖縄戦で日本軍は玉砕し、その中で生き残られたことは奇跡中の奇跡だと思います。そして私の知る限り今もご健在です。

御歳98歳。

「生き残った罪、だからその罰」と、戦争の責任を一人で背負い続けてこられました。

伊東さんが取り上げられた記事です↓↓

沖縄戦で生き残った男が「封印」した356通の手紙。時空を超え、若者たちが遺族に届ける

 

亡くなった人は無論のこと、生き残った人もまた戦争の犠牲者なんですよね。

国家の決定に駆り出され、命令に従い、殺し合って、戦争は終わり、その後国家は復興。

戦った生身の人間はすっかり置いてけぼりで、時代はガラリと変わっても何十年も贖罪の日々を送ることになるわけです。 

戦時中、部下たちに壕の外に出るなと命令し続け、結局死ぬまで太陽の光を見せてあげられなかった贖罪として、生き残ってしまったご自分は部下に申し訳ないと外に出ないと決めて、もう70年以上も自宅から一歩も出ず過ごしていらっしゃる元部隊長の方もおられるそうです。

 

90歳を超える体験者の方々がいまだに生き残った十字架を背負いながら毎日を過ごしていらっしゃるのを聞くと戦争の罪深さを感じずにはいられません。

時代の流れ、と言えばそれまででしょうが戦争体験をした方は70年以上経つ今でも鮮明に覚えておられたりして、戦争を知らない私たちにはやはり想像も及ばないほどの出来事だったのだと思います。

 

さてジオラマを堪能した後、見逃し続けた「缶詰・カンパン壕」へ。

前田高地には日本軍用の食料を保管していた「缶詰壕」や「カンパン壕」と呼ばれた壕が残っています。

またもや「ハブ注意」に脅かされながら、怖さを振り払うようにずんずん前進します。

f:id:No10:20180830142934j:plain

小さなゲートを開けて入ります。

f:id:No10:20180830143037j:plain

階段が設置されています。

お天気が良く明るいので何とか進めますが周りが暗いと危険と恐怖しかありません。いろんな意味で。

訪れる際は、どうぞ安全のためにも真っ昼間にいらっしゃってください。

 

『うらそえナビ』のHPからお借りしました。こちらの方が見やすいですね。

(^^;)>

f:id:No10:20180830143158j:plain

ジオラマで見ると…(載せたくて仕方がない)

f:id:No10:20180830144240j:plain

印の辺りです。

ジオラマ手前側が日本軍、向こう側が米軍陣地になります。

↓缶詰壕への案内板

f:id:No10:20180830145937j:plain

こちらが缶詰壕

f:id:No10:20180830150059j:plain

 

f:id:No10:20180830150306j:plain

 どの壕も岩盤が下がり危険なため、入ることはできません。

↓カンパン壕

f:id:No10:20180830150447j:plain

f:id:No10:20180830150546j:plain

水が流れ込んでしまっています。

あちこちに壕跡があります。

f:id:No10:20180830150633j:plain

当時はもう少し広かったのでしょうが、こんな薄暗いなかで米軍の攻撃にさらされながら何日も過ごしていたのかと思うと肉体も精神も環境も極限の劣悪レベルだったのでしょう。

米軍は戦中でも軍の交代があり、心身のリフレッシュ期間が設けられていたようです。日本軍は火力・兵力の圧倒的不利に加え、兵士の体力面においても不利、だったのですね。

 

どこのどんな史跡でもそうですが、背景を知らないと「ふーん」で終わりがちです。そんなわけで私達夫婦はより深く意味のある旅になるよう事前学習をするわけですが、知れば知るほど何でもない岩や壁にすら感動します。

もしこのブログ記事を読んで「缶詰・カンパン壕」を訪れようと思ってくださる方もおられるかもしれないので、ここで背景となるエピソードをひとつ。

以前にご紹介した外間守善 著『私の沖縄戦記』からの抜粋引用です。

 

私が前田の缶詰壕に潜んでいたとき、二人の日本兵がやってきた。缶切りがなかったところにやってきた二人は勝手を知っている様子で缶詰を開け食べ始めたので私の分も分けてくれと頼んだ。無視して貪り食うばかりで、重ねて懇願するとうるさいとばかりに銃剣で脅かされ壕奥へと追いやられてしまった。私は何時間もかかって小さな穴を開け缶詰の汁をするるのが精一杯だった。

突然の銃声で目を覚ますと、壕口の二人は米軍の小銃掃射にあって転がっていた(死んでいた)。彼らに壕奥へ追いやられたことで、また私は命拾いをした

 

外間さんはあまりの戦闘の過酷さと苦痛に、もう「ひと思いに銃弾を受けて」死んでもいいと思いつつ何度も奇跡的な命運に救われ、生き残られたおひとりです。

ぜひこの著書を読んでからの前田高地訪問を強くお勧め致します

('ω')ノ

 

今回の沖縄旅の戦跡めぐりは以上になります。

何度行っても当時のまま現存する遺跡を見ると戦争は現実にあったのだと改めて思い知らされ一気にリアルに感じます。

ここ数年、終戦記念日が近づく8月になっても戦争特集番組が激減し、ほとんど見なくなりました。学校教育では「二度と繰り返してはいけない」と叫びつつもリアルさがないと子供たちにはひょっとするとシューティングゲームのようにしか映らないかもしれません。

私の中・高の出身校だけかもしれませんが、日本史の授業は明治維新を終えてからは大して時間を割かれることなくすごいスピードで終えました。

原始時代を軽んじていいとは言いませんが、弥生土器縄文土器にはすごく時間をかけるのに、終盤の近代はやっつけ感半端なかったです。

 

現在の日本の礎となる時代をしっかり学ぶことで、いつ、なぜ日本は軍国主義だったのか、なぜ戦争に突っ走ったのか、原因と経緯を知れば予防ができます。風化してしまっては繰り返し回避を未来永劫に担保できない気がします。

保存維持にはお金がかかりますが、作りものではない戦跡ほど貴重なものはありません。少しでも戦争遺跡に焦点が当たってほしいものです。

 


旅の知識・楽しみ方ランキング

沖縄旅行記(2018年 夏)②「南風原文化センター」と「前田高地(前編)」

なかなか勇気が出ず避けつつも、一度は訪れてみたかった「南風原文化センター」。

f:id:No10:20180719094109j:plain

沖縄陸軍病院南風原壕群20号」の内部見学できる上、以前テレビで当時の匂いを再現したものが作られたそうで、それがここで体験できるとか。

今回は6月23日という日に訪れているのでそういうのがメイン。頑張って行ってきました。

 

入ると右手にお姉さんが座っていてそちらで入場料ひとり300円を支払います。

そしてすぐ右脇に入り口。

 

再現した壕の内部、「穴の空いた砲弾の塀(実物)」など見学通路に沿って展示してあります。

やはり実物は圧巻です。

f:id:No10:20180719113832j:plain

 ↓兵器

f:id:No10:20180719113721j:plain

↓医薬品

f:id:No10:20180719113758j:plain

↓戦車の残骸

f:id:No10:20180719115539j:plain

 

いよいよ壕見学へ。

と思ったら受付は16:30までとのこと。時計を見ると16:32分…。

沖縄タイムなるものを期待しましたが、きっちりお断りされました(^^;)

 

やはり終戦記念日ということもあって、中学生たちの団体見学が多いのだそうです。

この日ほど平和学習に適した日はありませんからね。

 

というわけで翌日に予約し、会館の外(向かって左側)にある「飯あげの道」に行ってみる。陸軍病院壕へ飲食料を届けるための道です。これはNHKで見たことがあったのでどうしても見てみたかったのです。

f:id:No10:20180719114135j:plain

f:id:No10:20180719114032j:plain

 陸軍病院壕での看護に動員された女学生たちが、米軍の砲弾の合間を見計らって命懸けで食料や水を運ぶために駆け抜けた道です。そういう様子も『沖縄決戦』のDVDにあります。

↓文化センターにある「飯あげ」イメージレプリカ

f:id:No10:20180719114759j:plain

そして実際登ってみる。

100mほどでギブ。

見た目より本当にびっくりするほど急勾配で、脚が重くなって登れない。

この時間になるまでの疲れもあったのでしょうが、当時はもちろん舗装路もなく私たちの疲れなど比にもならないくらいの状況で、いつ撃たれるか分からない緊張感の中を飲食料を持ってここを走ったのかと思うと、もう驚きしかありませんでした。

こういう体感はやはり現地を訪れて初めて分かるものですね。

普段からそんなに運動不足の方ではないのですが次の日はふくらはぎがパンパンに筋肉痛でヘナチョコ歩きしかできませんでした。いや~情けない。

 

そして予約当日、いよいよ壕へ。

この日は黄金森の「南風原文化センター」の逆側に位置する野球場側から車でアクセス。そこから徒歩数分で現地壕に到着です。

↓地図

f:id:No10:20180719232051j:plain

↓20号入り口

f:id:No10:20180719114502j:plain

そこにはガイドをして下さるご年配の女性。小さな受付でまた300円を支払いヘルメットをお借りします。

写真はOKなのですがブログなどには載せないことが条件です。理解の相違があって伝わるといけないからだそうです。

はい、了解です。

 

というわけで写真はありませんが、ひめゆりの女学生たちの壕のガイドから始まりその後、病院壕へ。

中は安全なようにかなり整備されていて当時の怖さはありません。ただ暗くて狭いので狭・暗所恐怖症の方は別の意味で恐怖かもしれません。

 

天井は当時のままの部分も残されていて、崩落はしないまでもボロボロと天井壁が徐々に落ちてくるので背の高い方が頭をぶつけると表面が崩れて土まみれだそうです。

埋められていた医薬品や、生活用品、米軍の火炎放射器の跡などを見ることができます。

 

基本的には壕の中は何もないので、文化センターでレプリカを見てから行くと当時の様子が浮かびます。そしてちょっと怖くなります。

↓文化センターの壕内の様子レプリカ

f:id:No10:20180719114712j:plain

ガイド時間は約1時間でした。

暑い中ガイドさんに感謝です。

 

ちょうど壕を出たところに置き忘れのような佇まいの金属製の工具箱を見つけました。

よーく見ると「ハブ捕獲機」と書いてある…。

本当に出るんだ~!と思うとそっちの方が怖くてその時のガイドさんの話がもう入ってこない。ごめんなさい。

 

それにしても73年前はここで、空腹、渇き、蒸し暑さ、暗さ、狭さ、匂い、痛み、迫る米軍、ハブ…一体何重苦に見舞われたのだろうと「想像を絶する」、とはこのことです。

 

そして病院壕を後に再び「前田高地」へ。

何度行っても迷いこむ狭い道路。ナビも黙り込む始末。行くときはぜひコンパクトカーで行ってください。前から車が来たらすれ違えず下がるしかなくなります。

予定より倍の時間かかって(迷って)ようやく到着しました。

 

前回来た時とは季節が違うので高地は草が青々とし、ハクソーリッジの崖右手へさらに続く奥、「為朝岩(ワカリジー)」へと繋がる道はけもの道のようになっていて行きづらくなっていました。

そう、私たちの行く手をことごとく阻む「ハブ注意」。炸裂です。それが決して脅しでないと、さきほど見たハブ捕獲機でリアルな注意だと知ります。

 

前回行けなかった前田高地の「乾パン壕」や「缶詰壕」。

外間氏の『私の沖縄戦記』でよく出てくるのでこれも見てみたかったのです。

↓これが絵地図。どうやって行こうか…。

f:id:No10:20180719234903j:plain

うーん、やはり 迂回するしかないようです。

アクセスポイントは「浦添大公園南エントランス管理事務所」から。

 

…が、ここが見つからない、迷って迷って何度聞いても辿り着けない、ナビはもちろん黙り込み。本来ならおそらく車で5分程度のところなんだと思います。

脇の山道に入ったり、通り過ぎたり、上がったり下がったり、もう一生辿り着けないんじゃないかと思ったほどです。

ここで約1時間のロス(*´Д`)

前田高地にある「ようどれ会館」前に車を置いて徒歩で行けばよかったのかもしれませんが、この日はかなりの猛暑。少し歩いただけでクラクラします。

そしてやっとの思いで到着。

あー涼しくて綺麗。

やっぱり誰も居ない。

所員のおじさまがおひとり。

何もないと思えたこの事務所で貴重な写真をゲットです☆

 

次へつづく…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょこっと番外編

前回記事で式典での学生スピーチが泣けてきた、と書きました。

そのスピーチ文は式次第にも掲載されています。改めて読んでも素晴らしく、しかも書いたのはなんと中学3年生。

おそらくこれを書くにあたり、多くの書籍や資料を読み、勉強し、想像し、思いを馳せ、考えたのでしょう。それでも15歳という若さでその感受性・表現力・語彙力に驚かされます。

あまりに素晴らしいので、共有させて頂ければと思い番外編にしました。

ハンカチの準備をどうぞ。

 

私は、生きている。

マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、

心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、

草の匂いを鼻孔に感じ、

遠くから聞こえてくる潮騒に意味を傾けて。

 

私は今、生きている。

 

私の生きるこの島は、

何と美しい島だろう。

青く輝く海、

岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、

山羊の嘶き、

小川のせせらぎ、

畑に続く小道、

萌え出づる山の緑、

優しい三線の響き、

照りつける太陽の光。

 

私はなんと美しい島に、

生まれ育ったのだろう。

 

ありったけの私の感覚器で、感受性で、

島を感じる。心がじわりと熱くなる。

 

私はこの瞬間を、生きている。

 

この瞬間の素晴らしさが

この瞬間の愛おしさが

今と言う安らぎとなり

私の中に広がりゆく。

 

たまらなく込み上げるこの気持ちを

どう表現しよう。

大切な今よ

かけがえのない今よ。

 

私の生きる、この今よ。

 

七十三年前、

私の愛する島が、死の島と化したあの日。

小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。

優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。

青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。

草の匂いは死臭で濁り、

光り輝いていた海の水面は、

戦艦で埋め尽くされた。

火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、

燃えつくされた民家、火薬の匂い。

着弾に揺れる大地。血に染まった海。

魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。

阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 

みんな、生きていたのだ。

私と何も変わらない、

懸命に生きる命だったのだ。

彼らの人生を、それぞれの未来を。

疑うことなく、思い描いていたんだ。

家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。

仕事があった。生きがいがあった。

 

日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って

生きてきた、私と同じ、人間だった。

それなのに。

壊されて、奪われた。

生きた時代が違う。ただ、それだけで。

無辜の命を。あたり前に生きていた、あの

日々を。

 

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。

悲しくて、忘れることのできない、この島の

全て。

私は手を強く握り、誓う。

奪われた命に想いを馳せて、

心から、誓う。

 

私が生きている限り、

こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、

絶対に許さないことを。

もう二度と過去を未来にしないこと。

全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗

教を越え、あらゆる利害を越えて、平和であ

る世界を目指すこと。

生きる事、命を大切にできることを、

誰からも侵されない世界を創ること。

平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

あなたも、感じるだろう。

この島の美しさを。

あなたも、知っているだろう。

この島の悲しみを。

そして、あなたも、

私と同じこの瞬間を

一緒に生きているのだ。

 

今を一緒に、生きているのだ。

 

だから、きっとわかるはずなんだ。

戦争の無意味さを。本当の平和を。

頭じゃなくて、その心で。

戦力という愚かな力を持つことで、

得られる平和など、本当は無いことを。

平和とは、あたり前に生きること。

その命を精一杯輝かせていきることだという

ことを。

 

私は、今を生きている。

みんなと一緒に。

そして、これからも生きていく。

一日一日を大切に。

平和を想って。平和を祈って。

なぜなら、未来は、

この瞬間の延長線上にあるからだ。

つまり、未来は、今なんだ。

 

大好きな、私の島。

誇り高き、みんなの島。

そして、この島に生きる、すべての命。

私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

 

これからも、共に生きてゆこう。

この青に囲まれた美しい故郷から。

真の平和を発進しよう。

一人一人が立ち上がって、

みんなで未来を歩んでいこう。

 

摩文仁の丘の風に吹かれ、

私の命が鳴っている。

過去と現在、未来の共鳴。

鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。

命よ響け。生きゆく未来に。

私は今を、生きていく。

 

原文ママ

 


旅の知識・楽しみ方ランキング

沖縄旅行記(2018年 夏)①沖縄の終戦記念日

久しぶりの更新でございます。

なぜならこの半年は転職に引っ越しと、怒涛のイベントが押し寄せましてなかなか旅行にも行けない状態でございました。

 

…が、ようやく再び大好きな沖縄へ‼

感慨深いことに6月23日に訪れることができました。

 

沖縄の終戦記念日「慰霊の日」です。

 

そして式典にも一般参加し、沖縄戦の酷さを改めて考えさせられる貴重な時間を過ごすことができました。

 

今回も恒例の宿泊したホテル情報と、戦跡巡りで再びの前田高地、前回行けなかった壕、またそこで得たとても貴重な写真など載せております。

ご興味のある方はぜひご覧くださいませ<(_ _)>

 

まずはメイン目的となった「平成30年沖縄全戦没者追悼式」です。

 

梅雨も明け、式典は沖縄らしい青空・暑さの中で執り行われました。

この日は一般車両は会場となる摩文仁平和祈念公園周辺には近づけません。混雑回避もあるのでしょうが、おそらく安倍総理アメリカの要人出席のためセキュリティ面でかなり厳しく制限されています。

 

というわけで、私達はホテルからタクシーで。許可車両とタクシーのみ平和祈念公園へ入れます。

式典は11:50から始まるのですが、一般席は席数に限りがあるようなので念の為10:00頃に到着。

この日は資料館も無料開放されています。

とにかく暑いのでとりあえず中へ。

 

するとまるでハリウッドスターのような、軍服を着た、いかにも位の高そうなアメリカ軍人達が。

f:id:No10:20180706222830j:plain

資料館の中を付き人を従えて笑顔で周り、目が合った日本人にフレンドリーに話しかけている…。

なんと平和で穏やかな光景。思わずカメラでパシャリ。

まさに73年前の今日には考えられなかった光景に何とも不思議な感じさえしました。じーっと見ていると、そのアメリカ軍人たちがこちらの方へ…。ムリムリムリムリ。

私のすぐ隣の若い男性に何やら話かけている間に ビビりの私はダッシュで逃亡。

まぁ今思えばこの上ない体験を得られたかもしれませんが、緊張しすぎて結局何話したのか記憶が飛ぶだろう為、結果的には同じかな(^-^;

とはいえ臆病すぎる自分に自己嫌悪…。

 

そして幾度となくニュースで見た式典が始まります。

f:id:No10:20180706180609j:plain

沖縄県知事や総理、地元学生らのスピーチです。

特に女子学生の素晴らしいスピーチには目頭も熱くなり…周りからもすすり泣く音が聞こえました。

一転、首相スピーチの米軍基地問題になるとヤジが飛びます。これまで問題になる度ニュースで見るだけでしたが対岸の火事ではないことを思い知ります。

これは先ほどの軍人さん↓

f:id:No10:20180706180606j:plain

そして式典は滞りなく行われ、ほぼ定刻に終了しました。

その後は一般のお焼香も可能で会場はなお祈りに包まれていました。

f:id:No10:20180706220556j:plain

私たちもお焼香を済ませた後、摩文仁の丘へ。

これが号外で配られていた『沖縄タイムス』と「式次第」

f:id:No10:20180706224949j:plain

↑右側は英語版。

↓「式次第」見開き。

f:id:No10:20180706225031j:plain

↓ 丘から見た式典会場

f:id:No10:20180706181040j:plain

これまで訪れた時はいつも閑散としていてお供え花もなかったですが、さすがにこの日は、たくさんの御花がありました。

ほぼ当時のまま原形をとどめたこの32軍の終焉の壕は、沖縄戦がよりリアルに迫ってきます。百聞は一見に如かず。どこか単なる歴史のような気がしていた戦争が心に染みる瞬間です。

f:id:No10:20180706181415j:plain

「第三十二軍司令部終焉之地」とあります。左側に見える柵の向こうが壕です。

写真では見えないですが、文庫本程度の大きさの牛島中将の肖像写真が壕の入り口辺りに掛けられています。

牛島中将が自決し沖縄の組織的戦闘終結を迎えた6月23日が、まさにこの地です。

後述しますが、「戦争遺構を残すためには何が必要だと思いますか」というアンケートを、訪れたある施設でお願いされました。

一言でいうと”お金”でしょうね。その為にはやはり”関心”なんだと思います。

沖縄は戦史上稀に見る壮絶な地上戦が行われたにも関わらず、戦跡を巡ると人の少なさに驚かされます。当時を知ることをできる貴重な場所にはほとんど人はいません。終戦記念日であっても、です。

これでは資金も集まるはずはなく、遺構維持費も、そこを管理する人件費も削られて当然です。

あちこちで宅地造成が進み、現存する戦跡は今にも崩れそうなところばかりです。

これでは言葉では伝わらない部分を後世に伝えるのは難しく、風化し、忘れられていくのは想像に難くありません。

 

この日、摩文仁の丘は沖縄戦最期の地であるためその周辺は遺族と見られる方々がおられました。いつもよりは人が多いのでこれまで足がすくんで行けなかった所へも行ってみる…。

摩文仁の丘の頂上から、祈念公園の反対側(海側)へと降ります。

f:id:No10:20180706221005j:plain↑頂上にある「黎明の塔」 

石階段があるのでずんずん降りていきます。すると左側と三叉路になります。(写真撮り忘れた…)

そのまま道なりにまっすぐ行くと「沖縄師範健児の塔」、左側の二股に分かれた道を右へ行くと「南冥の塔」、左へ行くと海へ出ることができます。その途中には井戸があり水を求めて多くの人が殺到したそうですがそこには当然米軍が待ち構えていました。

↓ 海は急に現れます。悲劇の地と美しい海が相まみえない違和感。

f:id:No10:20180706222055j:plain

 

f:id:No10:20180706221236j:plain

 

f:id:No10:20180706225610j:plain

73年前、米軍の戦艦で埋め尽くした海。想像がつかないほど海は美しい。

 

そして海へ降りたかったのですが、階段が…ぱっくり割れている…。

f:id:No10:20180706222125j:plain

途中ですれ違った老夫婦が「足元悪いからね~」と教えて下さいましたが悪いどころではない。捻挫確実。

脇の茂みからはガサガサっと音がするし(風だと思いたいのですが、何せあちこちに「ハブ注意」とあるのでビビりまくりです)引き上げてきました。

 

「慰霊の日」でもそこですれ違った人はやはり数える程度。

立派に作られた石碑や塔は祈りの場所なので怖さはありませんが、手つかずの場所には軽々に近寄れない怖さ・重さがあります。

でもそれが大切なんだと思うのです。

悲劇の怖さを感じなくなると「戦争は悲劇」という言葉が虚しく響きます。

戦争は怖いもの、と位置づけた教育を受けてきましたが正直、”怖いって何?”状態でした。(当然ですが)実態が伴わないのです。その実態を垣間見られる戦争遺構を何とか残して頂けないかと切に感じた1日でした。

次は「前田高地」と「南風原文化センター」へ。

つづく。

 

 

 


旅の知識・楽しみ方ランキング

沖縄旅行(2017年 秋)<旅程・旅費内訳大公開!>

 気になるお金のこと 

 今回は3回目の沖縄旅行ということで、コアな観光スポットを無駄なく回るために動線も意識してリーズナブルに、を意識して組んでみました!

ケチるわけではないのですがいつも帰る日の「レンタカー代+保険料」に無駄を感じていました。半日あるかないか、ですからね。(保険料はそれでも1日分)

今回は別々に手配するなど工夫しました。旅程を考えてレンタカーは貸出店舗と返却店舗を分け、最終日はレンタカーなしで最後まで楽しむ!

旅費も現地利用含めて10万円強に抑えることができたこともあり手前味噌ですが、無駄な動きのない良いツアーだったと夫婦で自画自賛してます!(#^^#)

f:id:No10:20171015233903j:plain

 

 

旅程

<1日目>

 ①  6:30~  7:30 空港リムジンバス乗車

 ②  8:25~11:00 羽田⇒那覇

 ③11:30~12:00 ポークたまごおにぎり本店(那覇空港店)でランチ購入

 ④12:00~13:15 レンタカー受け取り(オリックスレンタカー那覇空港店)

 ⑤14:00~14:30 波上宮参拝(御朱印帳購入)

  ~~~移動(高速道路利用)~~~

 ⑥  16:00    ホテル着(Okinawa Spa Resort EXES)

 

<2日目>

 ①  8:00~  9:30  朝食ビュッフェ

 ②  11:00    チェックアウト

  ~~~移動(一般道路利用)~~~

 ③12:00~12:30  真栄田岬散策

 ④14:00~16:30  前田高地散策

 ⑤17:00~17:30  シュガーローフ散策

 ⑥  18:30     レンタカー返却(オリックスレンタカー美栄橋駅店)

 ⑦  19:00   ホテル着(JR九州ホテル ブラッサム那覇

 ☆レンタカー営業所からホテルまで徒歩5分!近いっ!

 

<3日目>

 ①  6:30~  7:30   朝食ビュッフェ

 ②  7:45~  9:00   パラセーリング(ホテル送迎付)

 ③  11:00   チェックアウト

  ~~~移動(ゆいレール利用)~~~

 ④12:45~15:00   那覇⇒羽田

 

旅費内訳

  ①航空券 & ホテル

  ・往復航空券+全ホテル(朝食込)

  ・「るるぶトラベル」にてネット予約、事前クレジット決済

  ・78,200円(税込)ー 7,000円(クーポン利用)=71,200

 ②レンタカー

  ・オリックスレンタカー

  ・新車登録2年以内、禁煙車

  ・1日目:那覇空港店出発→2日目:美栄橋駅前店返却

  ・「たびらい沖縄」にてネット予約、現地支払い

  ・2日間 5,220円(税込、基本保険料込)

 ③マリンアクティビティ

  ・3日目:パラセーリング

  ・「じゃらん・遊び・体験予約」でネット予約、現地払い

  ・7,000円(税込)/人×2人=14,000円ー 2,000円(クーポン利用)=12,000

  ④その他

  ・空港バス往復(2人分)約4,000円

  ・ガソリン代 約1,500円

  ・ポークたまごおにぎり(2回)約3,000円

  ・波上宮 御朱印帳(1,500円)、お守り(500円×4)3,500円

  ・前田高地(ガイド代)1,500円 

  ・その他(高速代、買い食い、お土産、等)約5,000円

合計2人で 約100,000円

 

お得情報&失敗談

今回はマイルを貯めだしてから初めての旅行ということで、ポイントサイトを活用して予約をしましたので利用状況をご紹介します。

・航空券+ホテルをハピタス経由で予約

 78,200円×1.2%=938ポイント

 

意外にクーポン割引前の金額で反映されるんですね~、良心的!

もちろんマイルも貯まります。今回はANAのツアーで安いものが見つからなかったのでJALで行くことに。

JALマイル=984マイルです

f:id:No10:20171105202826p:plain

 ・レンタカーをハピタス経由で予約

 1予約=130ポイント 後日分かったことですが北海道・沖縄以外が対象でした。つまり沖縄だったのでポイントの対象にはなりませんでした。残念。

f:id:No10:20171105203035p:plain

・パラセーリングをハピタス経由で予約

  14,000円×0.5%=70ポイント

f:id:No10:20171105203205p:plain

 

このように航空機の984マイル以外にも1,138ポイントをゲットできます。マイルに交換すれば約1,000マイルとなり、ポイントサイトを経由するだけでこれだけお得になりました!

 

が、しかーし、

 

今回の予約は「たぶんハピタスが一番還元率が高いだろう」と勝手に思い込んでハピタスを使ったのですが、るるぶトラベルとじゃらんについては下記のとおりちょびリッチの方がかなり還元率が高かったのです!しまったーーーー(;_;)

f:id:No10:20171105205232p:plain f:id:No10:20171105205257p:plain

今後は面倒くさがらずにちゃんと確認してから予約しようと思います。

まだまだ詰めが甘いですねぇ~。

ハピタス、ちょびリッチの登録がまだの方はこちらからどうぞ。 

日々の生活にhappyをプラスする|ハピタスサイフもココロもハッピーに!ちょびリッチ

 ポイントサイトって何?という方はこちらの記事をご覧ください<(_ _)>

no10.hatenablog.com

no10.hatenablog.com 

no10.hatenablog.com

no10.hatenablog.com

 

 ↓↓↓読んで頂きありがとうございます。クリック頂けると励みになります!


旅行・観光ランキング

沖縄旅行記(2017年 秋)⑦パラセーリング

パラセーリングを体験!

今回の旅行の最後のイベントはこれ、以前から気になっていた「パラセーリング」です。3日目の帰りの飛行機が12時過ぎだったので、朝一の時間で予約しました(ホテル前8時)。送迎付きのプランだったので、レンタカーを返した後でも効率よく楽しむことができました。

せっかくなので、一番長い200メートルのロープ(高さは60~70メートルくらいらしいです)を選択。モーターボートに乗ってポイントまで行くので、その間は海上ドライブも(船酔いしない人は)楽しめます!

波に揺られるときはちょっとしたアトラクションぐらい上下してなかなかのスリルでした。

参加するのに特別な準備はありません。

あえていうなら濡れても大丈夫な服装とビーチサンダルを履いて、ぐらいです。

なので私たちは膝丈ジャージにTシャツ、ビーサン、サングラスという軽装で行きました。同乗した女性ペアは限りなくフツーの服装でした。そのうちの一人はスカートだったような…。

もちろん、髪も濡れない(実際には服も全然大丈夫でした)着替えも要らない、本当にお手軽なマリンアクティビティです(^◇^)

↓↓↓そしてそして、こんなサイコーの非日常が味わえます!!

f:id:No10:20171022213750j:plain

なんといってもこれは天気が命

なので前日17:00までキャンセルOKなところに予約して、天気予報を常にチェックしていました。(当日予約できる実施会社も結構ありますよ)

幸いキャンセルすることなく予定通りに楽しむことができました。

 

高い所が怖い人でもたぶん大丈夫です。一面海なのであまり高さを感じないのです。もっと高くして~って感じでした(*^▽^*)

私たちと同乗したのは他にその女性ペア1組だけでしたので、待ちの時間はほとんど無く、ホテルを出発してから終わってホテルに到着まで所要時間は1時間くらいでした。

思ったより早くホテルに着き、チェックアウトの11時までかなり余裕があったので、少し昼寝をしてから出発することもできました。

案外時間を取りませんので、帰る日でも十分だと思います。

 

沖縄は天気が良ければ、海の美しさは見とれてしまうほど。

そんな海でなにか遊べることはないかと探して見つけたこのパラセーリング

大正解でした!!

ダイビングやシュノーケリングは髪が濡れる化粧が落ちると妻がうるさいし、シーウォークは水着じゃないとだめだったり(そりゃそうだ)、時間がかかったりしてどんどん選択肢が消えていき…。

消去法でいきつきましたが、またしたい!と思えるほど良かったです!

ちなみに小さいなお子さんでも大丈夫だそうです。みんなで楽しめますね。

次は離島のエメラルドグリーンの海の上でパラセーリングしたいなぁ~(*´▽`*)

 

かかった費用、利用した会社など旅費の内訳は次回まとめて載せま~す。ぜひ参考になさって下さい♪

 

 


旅の知識・楽しみ方ランキング

沖縄旅行記(2017年 秋)⑥<戦跡>シュガーローフ

「シュガーローフ」も訪ねてみた

 今回の旅程には入っていなかったのですが「前田高地」を訪ねガイドさんにいろいろ貴重なお話を聞いたことで、その戦況の流れを追ってみたくなったのです。(本当は「南風原文化センター」へ行くつもりだったのですが、時間が押してしまい次回へ持ち越しとなりました)

前田高地陥落後、次の激戦地となった「シュガーローフ」です。

 

ゆいレールおもろまち駅近くにあり、現在は都市開発が進みほとんど痕跡は残っていません。

↓当時

f:id:No10:20171115122650j:plain

↓現在 

f:id:No10:20171115123914j:plain

頂上部には水道局の配水タンクが設置されています。そこにはひっそりと小さな碑文があるのみです↓

f:id:No10:20171115131738j:plain

 

わずか7日間で日米軍合わせ約五千人の死者が出たこのシュガーローフ。

事実上、ここが最後の激戦地です。

高さ20メートルにも満たないこの丘を巡って米軍と日本軍が11回にもわたって争奪戦を繰り広げました。

 

ここまでの死闘となったのはこの丘の陥落は首里城にある軍本部の陥落、つまり敗北を意味したからです。最大で最後の防衛ラインに位置するため、いかなる犠牲を払っても守らなければならない最後の砦だったのです。

↓シュガーローフ頂上東側からの写真。首里城が見えます(赤枠)

f:id:No10:20171115133513j:plain

軍本部がもう目と鼻の先だったことが分かります。

 

米軍にとっても沖縄を攻略するにはこの丘を突破しなければなりませんでした。決死の覚悟で全戦力を挙げて抵抗する日本軍に対し、米軍は予想外の苦戦を強いられ「太平洋戦争を通じて最も血みどろの戦い」となったそうです。

 

そして圧倒的な兵力と物資・軍事力を持つ米軍を相手に、日本軍は互角以上の戦いをしたといいます。

f:id:No10:20171022210316j:plain

↑『沖縄 シュガーローフの戦い』には米軍の生き残った退役軍人の話を元に赤裸々で生々しい戦いの様子が書かれていて、どれだけ苦戦したかがよく分かります。

 

沖縄戦は「米軍の日本本土攻略への時間稼ぎにすぎず、自らの命を代償に、米軍に可能な限り多大な出血をしいる」もので「日本兵はひたすら陣地内にひそみ、自らが死ぬ前に可能な限りたくさんの米兵を殺すべし」というのが作戦の指針でした。(「」内は上著書『沖縄 シュガーローフの戦い』より)

つまり勝つことは前提とされていない戦いだったのです。

 

そんな中での日本軍の頑張りが何とも胸に迫りました。

本当に日本軍は強かったんだなぁと誇らしく感じる一方で、それでもやはり兵士ひとりひとりに人生があり物語があり、大切な人がいて、もう一度会いたかった人がいたはずだと思うとこれほど命を軽んじる戦争の恐ろしさを同時に感じます。

上著書にこんな話がありました(要約)

すでに沖縄の地での死を覚悟していた海軍気象士官だったある兵士が突然東京の軍令部への転勤を受け、見送るために集まった部下の兵士らは「どうしても行ってしまうのですか」と別れを惜しみながらも「内地には砂糖がないというので、兵員一同で黒砂糖を機内に積んでおきました、内地の皆さんにお分け下さい」と言って見送った…

もう号泣です。

 

今回「前田高地」「シュガーローフ」と現地を訪ね、訪れる人のいない戦跡を見た時、忘れ去られているような何とも言えない寂しい気持ちになりました。当時に思いを馳せ、忘れないことで感謝や供養の形になればなぁと思います。

 

 


旅の知識・楽しみ方ランキング